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須磨歴史名所マップ


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西須磨にある華族・財界人の別荘 神戸迎賓館須磨離宮 旧西尾邸

皆さんは、華やかな明治の名残を残す建物が西須磨にあることをご存知でしょうか?

源氏物語源平合戦の舞台になった須磨の地は、明治30年頃、自然の美しさや温暖な土地を愛した華族や財界人によって、多くの美しい別荘が建てられ始め、鉄道の開通もあり、西須磨は多くの華やかな建築物で賑わいました。
しかし、第二次世界大戦以降、建築されることはほぼ無くなり、阪神淡路大震災により倒壊した家もあり、現代に残る当時の別荘は数少なくなっています。

神戸迎賓館(旧西尾邸)
その中でも、今回皆さんにご紹介したいのが神戸迎賓館(旧西尾邸)です。
平成13年2月に、洋館として始めて「神戸指定有形文化財」に認定された当時の面影を現在も色濃く残している建物です。


迎賓館として建てられた西尾邸は現在、レストラン ル・アン「鸞」としてできるだけ当時の造形を残し、補修、整備され、当時の建築を楽しみにながらちょっと贅沢なランチを楽しめる場所として一般公開されています。

また、ハウスウェディングできる場所としても有名です。

当時の華やかさや様式を楽しみながら少し豪華な食事を楽しんでみてはいかがでしょうか?



Posted by 須磨浦マップ at 11:25 近代・近現代の須磨コメント(0)

須磨の関跡

皆さんは、須磨があったことをご存知でしょうか?

天下の三関という「伊勢の鈴鹿の関」「美濃の不和の関」「越前の愛発の関」は、都や皇居(畿内)を守る為に特に重視された関がありました。

実は須磨の関は「摂津の関」と呼ばれ、この天下の三関に次いで畿内と西国とを繋ぐ交通と軍事の要衝として重要な関でした。
それも天下三関が廃止された789年前後に須磨の関も廃止されてしまいました。

しかし、その場所は明らかになっておらず、明治の始め頃、現光寺の裏手から掘り出された石柱の側面に「川東左右関屋跡」と刻まれていることから、現光寺付近に合ったのではないかと考えられています。

その石柱は現在、関守稲荷神社の鳥居のそばに建てられており、この神社には須磨の関の守護神と言われている稲倉魂神が祀られています。

また、関守稲荷神社の境内には百人一首で知られている源兼昌の歌碑があり、須磨の関を詠う歌として有名です。




須磨の歴史を知る上で外せない須磨の関。現代にも残るその跡へ足を運んでみてはいかがでしょうか?


Posted by 須磨浦マップ at 13:16 古代の須磨コメント(0)

須磨寺 鯖大師

今回は、以前文学ブログのほうで紹介した須磨寺にある像、鯖大師をご紹介します。


弘法大師木像の右手に鯖が一尾握られていることから弘法大師は鯖大師と呼ばれています。皆さんがよく知る名で言えば弘法大師とは空海のことです。
空海といえば真言宗を開祖した人物として歴史の教科書に出てくるほど有名な人物ですよね。

鯖大師には伝説があり、各地に鯖大師と呼ばれる像が存在します。
そんな鯖大師の伝説は以下のとおりです。

鯖大師
四国の礼所を巡っていた鯖大師は険しい坂を上り詰めたところで一休みをしていた所、塩鯖を馬に乗せた馬子が通りかかりました。鯖大師は馬を見るに、馬を休ませろと馬子に言いますが、馬子はそのまま坂を登ろうとします。それでも鯖大師は馬を休めようと塩鯖を所望した所、馬子は口汚く罵って断り、その場を去ろうとしました。
その時鯖大師が 
「大さかや 八坂さか中 鯖一つ   
      大師にくれで馬の腹や(病)む」
と歌を詠んだところ、急に馬が苦しみ動かなくなり、驚いた馬子は先程の僧は空海に違いない、断ったから罰があたったと思い空海に一匹の鯖を差し出し、許しを乞いました。



その後、鯖大師が加持水を与えた事により馬はたちどころに元気になり、今度は
「大さかや、八坂さか中、鯖一つ、大師にくれて、馬の腹や(止)む」
と詠み、馬子から差し出された塩鯖を海へと浸け、加持祈祷をしました。すると死んでいたはずの塩鯖は生き返り海を泳いでいった、という伝説が残されています。

このことから、ご祈念してから鯖を三年絶つと、子宝成就、病気平癒、願い事が叶う、と言われています。
須磨寺に立ち寄った際は一度ご祈念してみてはいかがでしょうか?

Posted by 須磨浦マップ at 19:10 古代の須磨コメント(0)

前田家・菅の井

前回、ご紹介した菅原道真は、九州へ左遷される際須磨へと立ち寄りました。


須磨浦の漁師たちは魚網の大網を巻いて円座を作り、菅原道真に休んでいただいた、という歴史が残されています。
その際、西須磨の旧家である前田家が自分の屋敷で湧いた美味しい清水をさし上げたところ、大いに喜ばれ、水の礼として自画像を前田家へ送った、と言われております。

前田家ではその水をくんだ井戸を「菅の井」と名付け、この井戸水で銘酒「管の井」を作り毎年太宰府天満宮へ献上しました。
今でもその菅の井は保存され、現在は神戸市が菅の井広場として整備をし復元されています。
その他にも「菅公お手植えの松」、「杜若」が今も保存されています。

この杜若は街道を往来する人々に親しまれ
「須磨の前田のカキツの中にアヤメ咲くとは知らなんだ
                   咲いてしおれてまた咲く花は須磨の前田のカキツバタ」

と唄われたそうです。
この唄われた歌も、立て札へ描かれ保存されています。

須磨を訪れた際には一度、菅原道真と同じように此処で一息ついてみてはいかがですか?
また、菅原道真が祀られている網敷天満宮へも是非脚を運んでみてください。

Posted by 須磨浦マップ at 11:08 古代の須磨コメント(0)

菅原道真

須磨の歴史を紐解くと、平安時代の貴族や学者、漢詩人、政治家など多くの分野で活躍した皆さんも御存知の人物、菅原道真もこの土地に訪れたと言われており、その様子は源氏物語須磨の巻にも残されています。

醍醐天皇の時代には右大臣にまで登った道真でしたが、左大臣である藤原時平の告げ口により九州太宰府に左遷させられてしまいます。
九州へと移動する際、道真は雨風を避けるために須磨へと訪れいろいろな伝説を残して行きました。その名残が今でも網敷神社等須磨の色々な場所に残されています。

九州太宰府で死後、京には異変が相次ぎ、道真は天神様として信仰されるようになり、現在では幼少の頃より天童として詩歌の才を見せ、生前は優れた学者、詩人であったことから、天神様から学問の神として信仰されています。

次回は菅原道真が残した歴史の欠片をもう少し詳しくご紹介したいと思います!


Posted by 須磨浦マップ at 16:54 古代の須磨コメント(0)

在原行平と松風・村雨の伝説 春風、村雨の墓

今回からは源氏、平氏から離れ他の時代の歴史を残す場所をご紹介いたします。

以前ご紹介した、能の謡曲にもなった松風と村雨の伝説を覚えていらっしゃるでしょうか?
今回はその二人の墓をご紹介します。


春風、村雨の墓
■春風、村雨の墓
場所は、鏡の井のすぐ近く、多井畑厄除八幡宮の西200mの広場の一隅に二人の墓はあります。
在原行平死後、二人は多井畑の地で世を終えました。
墓は一石五輪塔で作られており、左は姉松風、右は妹村雨の墓と伝えられています。


寄り添うように並ぶ2つの墓の隣には、「松風・村雨二女」と彫られた石碑が建てられています。

この場所は、能の愛好家の人気スポットともなっており、他にも「村上帝社」や以前ご紹介した「松風村雨堂」も人気の場所です。


能としても、須磨に残る歴史としても有名なこの場所、是非一度、訪れてみて下さい。


Posted by 須磨浦マップ at 11:56 古代の須磨コメント(0)

那須与市の墓

皆さんは那須与一、という人物をご存知でしょうか?
聞いたことはある人が多いんじゃないでしょうか、

与一とは、此処須磨の土地に大いに関わりの有る、治承・寿永の乱(源平合戦)、そして只今放送中のHNKドラマ『平清盛』にも関係する人物です。

与一といえば弓の名手、として知られていますが、其れには一つの伝説が残されています。
与一は治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わりました。
屋島の戦いにて負けを認められない平氏方は軍船に扇の的を掲げ、射落としてみよと源氏へけしかけ、射手として選ばれたのが与一でした。
源義経に命じられ、与一は72m先にある海上を上下左右と揺れる船の上に掲げられた扇の的を見事射抜き、源平両軍は、歓声を上げて与一を褒め讃えた、という伝説が残されています。
この伝説はみなさんもご存知の平家物語にも記されています。

その那須与一の墓が此処、須磨にあります。
市営地下鉄、「妙法寺駅」、「板宿駅」から市バスで「那須神社前」に下車するとすぐに那須与一の墓が建っています。
この墓にお参りをすると年を老いても下の世話にならないとする言い伝えがあり、毎月7日の御命日には多くの参詣者が訪れます。またこの近くには与一が進行したとされる北向八幡神社があります。
戦乱後、八幡神社を訪れた与一は病にかかり、この地で死去した、という伝説も残されています。

ここの他に、京都府京都市の即成院、栃木県大田原市の菩薩寺玄性寺にも与一の墓はあります。

平安時代に活躍した弓の名手、那須与一。
源平合戦に活躍した彼の、現代まで残る歴史に触れてみてはいかがでしょうか?


<アクセス>

市営地下鉄「妙法寺駅」・「板宿駅」、山陽電鉄「板宿駅」から市バス5系統  「那須神社前」下車すぐ

Posted by 須磨浦マップ at 14:48 中世の須磨コメント(0)

平重衡とらわれの松跡

只今放送中のNHKドラマ『平清盛』と此処、須磨の土地とは強固な結びつきがあります。

今回は6年に渡る源氏平家による内乱、源平合戦という名で知られている治承・寿永の乱の中の一つ、須磨で行われた、一ノ谷の戦いに関わる歴史の一つをご紹介します。

一ノ谷の戦いについてはこちら≫

◆平重衡とらわれの松跡

今回ご紹介する中世の須磨を思わせる名所は山陽須磨駅下車すぐにあります。

一の谷の戦いの最中、重衡は東の前衛基地であった生田の森の守りを固める副大将でした。
しかし、源氏の激しい攻撃に総崩れになった平家。重衡も味方の船に乗り退却しようとしましたが、須磨寺の近くで馬を射られ生け捕りに合ってしまいます。

その時腰を下ろし悔し涙を流したのがこの松の木、と言われています。
その様子に同情した村人が一杯の獨酒を献上した所、重衡は大変喜んで受け取り一つの句を残しました。

ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて
           須磨で飲むこそ 濁酒なれ

その後、鎌倉に引き渡されるも、その器量に源頼朝は感心し厚遇されたと言われています。



平重衡の石碑以外にも一の谷の戦いは須磨に大きな影響を与え、様々な歴史の欠片を残しています。

以前伝記の方で紹介した安徳天皇の安徳宮
一ノ谷が激戦地で合ったことを教えてくれる、戦の濱など、
他にもまだ源氏と平家に関わる塚や寺、墓が残っております。
是非、須磨の歴史を巡ってみてくださいね。

<アクセス>
山陽電鉄「須磨寺駅」北すぐ

Posted by 須磨浦マップ at 15:59 中世の須磨コメント(0)

在原行平と松風・村雨の伝説 松風村雨堂

以前、古代の須磨を代表する話として『在原行平と松風村雨の伝説』をご紹介させていただきました。
詳しくはこちら≫

その中で、この悲恋の物語は『松風』という能の謡曲にもなりました、という話をいたしましたが、能以外にも様々な作品があります。
皆さんも一度は耳にしたことのある浄瑠璃『曽根崎心中』で知られている近松門左衛門の作品、浄瑠璃『松風村雨束帯鑑』や、浄瑠璃『行平磯馴松』、1932年に放映された映画『松風村雨 江戸篇』等、近代まで愛され様々な作品として歴史に名を残しています。

今回はそんな『在原行平と松風村雨の伝説』の中でも有名な史跡、松風村雨堂をご紹介しましょう。

■松風村雨堂
松風村雨堂
在原行平が天皇に許しを受け都へと帰る際、松風村雨に告げればさぞ悲しむだろうと行平は烏帽子狩衣を松の枝にかけ、小倉百人一首にも入集されている和歌「立ち別れ いなばの山の みねにおふる まつとし聞かば 今帰り来む」と読んで密かに二人のもとを去ってしまいます。



二人は行平の住居そばに庵を結び、行平の無事を祈りました。
この庵が『松風村雨堂』と伝えられています。

この場所には、烏帽子と狩衣をかけた松、衣掛松(きぬかけまつ)の切り株の他に先程紹介した行平の詠んだ百人一首にも入集された和歌の歌碑が建てられています。
この歌碑については文学のブログで紹介させて頂きますのでお楽しみに。

<アクセス>
山陽電鉄「須磨寺駅」から東へ徒歩約10分

JR・山陽電鉄「須磨駅」下車 「須磨駅前」バス停から市バス75系統「村雨堂」下車すぐ

昔から残る伝説の名残へ皆さんも脚を運んでみてください。

Posted by 須磨浦マップ at 11:01 古代の須磨コメント(0)

一ノ谷の戦い 戦の濱碑

日本の歴史の中で、須磨は、中世の時代に大きくかかわりました。
それが、2012年のNHKの大河ドラマ『平清盛』でも取り上がられる源氏平氏の戦いです。

今回は源氏と平氏の戦いに関わった史跡の一つをご紹介します。

一般的に「源平合戦」あるいは「源平の戦い」などの呼称が用いられている、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱、治承・寿永の乱。
後白河法皇の皇子以仁王の挙兵をきっかけに各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立に至ったという戦です。
この戦いの最中、平清盛は熱病で命を落としました。


一ノ谷の戦い

6年に渡る長い治承・寿永の乱の中には幾つかの戦が有りました。その中の一つに「一ノ谷の戦い」があります。

一ノ谷の戦いは、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦いです。
一の谷から西一帯の海岸は戦いの激戦地になったことから、「戦の濱」と言われ今現在もそれを伝える碑、戦の濱碑が須磨浦公園の東側に建てられています。


また、寿永3年(1184)2月7日、源義経らが一の谷の裏手の断崖絶壁から駆け下り、予想もしない方法で平家を奇襲しました。このことで戦局が一転し平家軍の多くが討死したと伝えられています。
今では「逆落し」と呼ばれ、一の谷の戦いの中では有名な事柄です。
そのことから、毎年旧暦2月7日早朝には馬の嘶きが聞こえる、と伝えられています。

皆さんも現地に立って源義経が活躍した土地に触れてみませんか?
もしかしたら馬の嘶きが聞こえてくるかもしれません。

<アクセス>

山陽電鉄「須磨浦公園駅」から東へ徒歩約10分

JR・山陽電鉄「須磨駅」から西へ徒歩約15分


Posted by 須磨浦マップ at 14:31 中世の須磨コメント(0)

在原行平と松風・村雨の伝説 鏡の井

在原行平と松風・村雨の伝説とは、松風と村雨という二人の娘が去っていった高貴の恋人在原行平を偲ぶという、能の名曲『松風』にも取り上げられた話です。

松風・村雨は平安時代、須磨に暮らしていたという伝承上の姉妹のことです。

姉妹は神戸市須磨区の多井畑に暮らしていた村長の娘たちで、本来の名は「もしほ」と「こふじ」という名でした。

二人が須磨へ塩を作るために海岸へ汐汲に通っていたところ、天皇の怒りに触れ須磨へ流されていた在原行平に出会い、行平は二人に「松風」「村雨」と名付け愛しました。

しかし、3年後、行平が天皇の許しを受け都に帰ることになり、この二人の女性と悲しい別れをすることになりました。その際、行平は小倉百人一首収録の「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる 待つとし聞かば いま帰り来む」の歌を詠んだものとされています。

須磨に配流された行平が海女と歌を交わす短い説話は、浄瑠璃や歌舞伎、近代には映画などにも取り入れられました。


鏡の井
鏡の井
在原行平と松風・村雨の伝説に関する場所として神戸市須磨区多井畑には、その二人の姉妹、「松風」と「村雨」がここに来て水面に写る姿を見て、化粧をしたという「鏡の井」と呼ばれる泉があります。

その一体は、多井畑字畑殿とよび、二人が育った館の跡だと伝えられています。



<アクセス>
JR・山陽電鉄「須磨駅」下車 「須磨駅前」バス停から市バス71・72系統「多井畑厄神」下車 西へ徒歩約3分

市営地下鉄「妙法寺駅」下車 「妙法寺駅前」バス停から市バス88系統「多井畑厄神」下車 西へ徒歩約3分

市営地下鉄「名谷駅」下車 「名谷駅前」バス停から市バス74系統「多井畑厄神」下車 西へ徒歩約3分



Posted by 須磨浦マップ at 13:26 古代の須磨コメント(0)

須磨の歴史名所を紹介します

ここでは、須磨の歴史名所を紹介していきます。
楽しみにお待ち下さい。





Posted by 須磨浦マップ at 13:36 お知らせコメント(0)